沙羅からのお便り 2013年10月8日

私とシャンソン

私とシャンソンとの出会はいつ頃だったのか?考えてみました。若いころに、どのような人や物事に出会ったか。いろいろな出会いによって歩く人生が左右されるように思います。

私は幼いころからおよそ洋楽の世界とは無縁でした。プロスポーツの監督だった無骨者の父は、なぜかマンドリンを持っていいました。丸っこい小さな楽器を抱えて父の太い指が奏でるのは、決まって「君恋し」か「影を慕いて」の古賀メロディーで、それ以外の曲を聴いた憶えがありません。

伯母は床の間の横においてある琴よりも三味線を好み、祭りの夜など、酔ってご機嫌な父が伯母の三味線で都々逸を唄っていたことがありました。歌謡曲のリクエストは伯母の耳には届かないようでした。

京都の知恩院の近くで生まれ育った母は「宝塚から誘われたことがあるのよ」などと言って「~すみれの花咲く頃~」などと口ずさんでいましたが「宝塚から」の話が本当とはとても思えないようなリズム感だった気がします。母は80歳を超えた頃でも口笛を上手に吹きました。曲名を尋ねると「アメリカ国歌よ」などといって・・・。真似て頑張ってみても私の唇はメロディーを奏でることは出来ません。

生きていれば100歳になる母、彼女もシャンソンが好きだったのかも知れない・・・。その父母も逝って久しい。

私は現役引退を決めて沙羅の経営に専念するまでは、建築意匠を本業にしていました。自分で書いた図面や絵が現場監督や職人さんの手によって形になってゆく!  面白さに夢中になって日々を過ごしていました。

デザイナーとしてフリー宣言をするまでの数年間を勤務し、多大な教えをいただいた建築設計事務所の芸大出身の師は、ご自身の制作活動や、後進を育てることに情熱的で、ひと仕事が終わると「百聞は一見にしかず」とアルバイトの貧乏学生やスタッフ数人をいろいろな所へ連れて行ってくれました。高級ホテルのバー、レストラン、会員制のナイトクラブ、箱根の別荘・・・。今になって思います、凄い方だったと。

半蔵門の一角に「異邦人」というレストランがありました。白いグランドピアノの横で胡蝶蘭のような女性がシャンソンを歌っている!物憂げに、囁くように・・・大人の世界に出会った瞬間でした。素敵でした!食事をするのも忘れて聞いていました。

「今度来るときは恋人と一緒がいいですよ」と師の言葉。「ほんとに!!」と思いました。しかし月給が12,000円程、貸間の相場は畳1帖が約1,000円。師の実家の離れの茶室風小部屋に居候をしていましたから、家賃の支払いはありませんでした。でも実家からの仕送りなしで暮らしていた私にとっても、奨学金とアルバイトで学生をしていた恋人も、とてもフランス料理とシャンソンを楽しむゆとりはありませんでした。

50年も昔のことです。日本は貧しく、私も貧しかった。1ドル360円の時代です。羽田飛行場の送迎デッキに立って「イタリアに行きたいな」の夢も、とてもとても遠いものでした。

建築中の上野の文化会館を見学し、美術館で初めて観たピカソのゲルニカ展に衝撃的感動を受け!夢だけを食べて生きていた青春でした。

「胡蝶蘭」の歌声が私のシャンソンとの出会いだったような気がします。

沙羅はもうすぐ開店24周年になります。

沙羅 店主