沙羅からのお便り 2016年7月7日

久しぶりに北八ヶ岳の白駒の池を訪ねた。

白樺湖からビーナスラインを経て八ヶ岳横断自動車道を走る。
日本一高いところを走る横断道路で、最高地点は標高2000メートルを超える。カーブの多い登り道路、芽吹いて間もない落葉松の緑が美しく目に染みる。

昔、建築意匠を本業としていたころ、別荘や保養所などを建てる仕事でよくこの道を走った。夜道を、時には濃霧の山道を一人で運転しながら「今ここで車が故障したら私はどちらの方向へ歩けば人里に早く着けるのだろう」などと考える事が良くあった。電話配線など見当たらない山中で携帯電話も無い時代だった。
標高1700メートルほどで森林限界線を超えると景色は一変する。常緑樹が多くなり、木々の緑は重なり合って濃く暗く、日暮れてくると、グリム童話の深い森を思わせるような、魔女が現れそうな、少し怖い雰囲気を醸し出す。猿や狐に出会うこともあった。

道路が明るく快適な時やしっとりと雨が降るときは、いつも呟いていた。

落葉松の林をを過ぎて/落葉松の林に入りぬ/落葉松はさびしかりけり/落葉松とささやきにけり

落葉松の林の雨は/淋しけどいよいよ静けし/落葉松に落葉松の雨/落葉松に落葉松の声
・・・・

無意識に白秋を詠んでいた。

その道を今、夫と共にドライブをしている。

「よく、働いたわよね~」「うん・・・」
「あなたは8時半に家を出たら深夜まで帰ってこなかった・・・」「君だって同じさ」
「忙しかった。でも面白かった、おかげさまで。」

リタイアして10年。思い出を語る歳になった。

車を降りて整備された木道を20分ほど歩いて白駒の池のほとりに着いた。
シーズンオフの湖畔には絵を描く人が数人見えるだけで人影はない。山荘の主人がお茶を運んできてくれた。

私が、初めてこの小屋に来た時お世話になったのはこの主人の祖父にあたる人だとわかって、今更ながらびっくりする。なんと、なんと永い年月が経ったことだろう!!

「少し霧がかかると一寸先も見えなくなるのですよ、湖面がひたひたと揺れているような感じになります」と、ご主人。

そう!あの時もそうでしたそうでした!

山の仲間たちが八ヶ岳の主峰、赤岳集中登山を企画した時、私達女性群(5名)は北八ヶ岳を縦走して集合地赤岳に行くコースを選んで参加した。
新宿からの夜行列車を小淵沢で小海線に乗り換えて、更にバスで稲子湯に下車、懐中電灯を頼りにただひたすら歩いた夜道は深い霧に覆われていた。ふと目の前の乳白色の霧が揺れているのに気が付く。よく見るとそれはゆらゆらと波立っている湖面だった。足元にはひたひたと湖水が迫っていた。湖には木製のボートが2艘つながれている。目を凝らすと目的の小屋がうっすら目に入ってきた。もう一息!!と木立の中を先に歩く友の姿がひどく幻想的だったことを憶えている。

「何年か後には、この八ヶ岳を横断する道路ができるそうだ。俗化しないうちに北八ヶ岳の池めぐりをすると良い。山登りも良いけど、湖もそれぞれに趣があって、なかなか良いものだよ」と教えてくれたおじさんはもういない。私と同世代だったと思われるその息子さんも2年ほど前に逝ったとのこと。古い小屋と新しくなった木の香り漂う新館を案内してくれた。親から子へ、そして孫へ。この静謐な自然を守り続ける日常を、誇らしく話す誠実そうな黒い瞳をした青年のようなご主人が印象的だった。たくさんのオゾンと美味しいお茶と!!

「ありがとう!!また来ます」

別れの時の約束を守ろうと思う。

 

沙羅店主