沙羅からのお便り2016年9月13日

沙羅からのお便り 9月13日

 

私には子供の頃、「宿題は終わったか」とか「勉強をしなさい」とか言われた記憶がありません。

海で泳ぐこと、昔は未だ珍しかったボートを漕ぐこと、魚釣りをすることなどは父から。
お人形を手造りして、着せ替える洋服や着物を縫って遊ぶことは、母が一緒に遊びながら。
私は第二次世界大戦の終戦を五才の時北京で迎えました。
あまり丈夫でなかった私を無事につれて帰れないかも知れないと思いながら、苦労を重ねてやっと帰国した両親は、娘が元気ならばそれだけで幸せだったのかもしれません。
中学生になっても母は毎朝縁側で私の長い髪を三つ編みに編んでくれていました。わがままな娘に育ったように思います。
しかしひとつの屋敷の中に、私たち一家の住む母屋と祖母と大伯母親子が住む隠居所、もう一人の伯母一家が住んでいる離れ屋がある生活は穏やかとか和やかなものではありませんでした。
立場が違うそれぞれの個性に追われて、京都の街中で生まれ、昔にしては自由に育った母にとっては耐え難い過酷な環境だったに違いないことは幼い私にも感じ取れていました。戦争が無ければ母は都会で優雅に自分流の生活が出来ていたのでしょう。
私は大人たちの感情の起伏をじっと見ている娘に育ちました。

そして身内だけではなく、驚くような大人の世間を見たのは中学3年の夏休みでした。
発展途上でまだまだ日本は貧しく、中卒者の集団就職などが多くて高校の進学率は50%位の時代でした。
中学3年の夏休み、職業訓練という名目の授業(希望者だけ)が数種類発表されました。
その一つに興味を持って同級生5名で参加したことがあります。
臨海学校に来る他校の中学生のための売店の運営です。
宿泊所として小学校の教室が利用されました。期間は10日ほどだったように思います。
商店会が商品を15%?ほど安く提供してくれて「売店の販売利益は実習参加者で分けてよい」とのこと。
始めておとなの世界に触れるようなドキドキ感で始めました。
パンやお菓子、ノート、鉛筆などなど。担当を決めて毎朝街の商店から品物を受け取り机に並べる。お店やさんごっこの延長ですが、思いがけずよく売れました。
一日の終わりに記帳をして、夏休みが終わったら親からもらうお小遣いではない、始めて手にするお金をどうしようかなどと仲間と話し合ってときめいていました。
私は「映画が大好きな母と一緒に出かけよう!!」と。

でも、しかし、二学期が始まって教師から「ご苦労様でした」と手渡されたのはバインダーのノート1冊でした。
「先生!違うんではないですか!」気まずそうに教師は黙って去っていきました。
商店会のリーダーでPTAの役員だった瀬戸物屋の、薬局の小父さん、先生たち!!
「あの販売利益は誰のものになったのですか??」
私たちが楽しく面白く過ごした職業実習は「大人は信用してはいけない」という見事な実習体験を穢れない少女たちの心に刻み込んで終了しました。
「せこい男たち」田舎の小さな町のリーダーも大政治家もあまり変わりませんね。

ふるさとを出て数十年経ちます。
今はもう潰れてしまった瀬戸物屋の小父さんも、今も営業中ですがあの薬局の小父さんも、もういない。
好意的に解釈をして、PTAには逆らえないまま生徒の心を無視するしかなかったのかもしれない・・・、でも嫌いになってしまった担任の先生も、逝ってしまいました。
「思春期の娘たちの遠い遠い夏の思い出」
困惑する人はいないので、バラしちゃいました!

色々なこと、沢山の出会い、長い年月を生きて今、結構楽しくすごしています。

 

沙羅店主